誰が棒グラフを発明したのか? グラフをつくる前に読む本を一部先行公開!

今回は、前回に引き続き9月23日に出版される「グラフをつくる前に読む本 一瞬で伝わる表現はどのように生まれたのか」を先行特別公開します。

 

グラフをつくる前に読む本 一瞬で伝わる表現はどのように生まれたのか
松本 健太郎
技術評論社 2017-09-23

 

今回も第2章「棒グラフ」からの紹介です。

調査に半年ほどの時間を費やした「棒グラフの成り立ち」について紹介します。

 

統計データのグラフ化に挑んだ男:ウィリアム・プレイフェア

棒グラフを考え出したその人物の名前はウィリアム・プレイフェアです。

1759年にスコットランドで生まれたプレイフェアが1786年に出版した「The Commercial and Political Atlas」(商業と政治の図解)の文中に、はじめて棒グラフが採用されました。

 

この本は、現代風に表現すると「図解でわかる!統計データ」とでも言いましょうか。今まさに手にしている本書と同じように、ウィリアム・プレイフェアは統計データを用いたグラフ表現に挑みました。

それまで貿易や財政に関する統計データは表に記載されるだけでしたが、ウィリアム・プレイフェアは数字を棒の長さで表現する方法を世界ではじめて公開しました。

「見慣れないかもしれないけど、こっちのほうがパッと見てわかりやすいじゃん?(意訳)」というコメントを付けて発表された40個のグラフのうちの1つが本章で解説する棒グラフでした。

つまり、まだ棒グラフが誕生して200年程度しか経っていないのです。

 

大変な読書家でもあったフランスの国王ルイ16世は、この本を読んで「これいいじゃん、すげーわかりやすいじゃん」と言ったそうで す。ただし、ウィリアム・プレイフェア自身が書き残した記録に残っているだけで、自作自演説が濃厚だと言われています。

現在でこそウィリアム・プレイフェアは政治経済学者であり近代的なグラフの創案者と紹介されていますが、彼の生涯は「バクチ」に負けた敗者の歴史と言っても過言ではありません。

何より彼の死は「地元新聞社の元編集長の死」として取り上げられたに過ぎず、多大すぎる功績が評価されるのは死後でした。

プレイフェアの人生について、そして棒グラフが誕生する背景について追ってみましょう。

 

ウィリアム・プレイフェアの波乱万丈な生涯

プレイフェアは、牧師の家の四男として生まれ、13歳で父親を亡くします。以降はプレイフェア家の長男であるジョン・プレイフェアの手によって育てられました。

11歳年上のジョンはかなり優秀で、数学の教授を務めるだけでなく、教会でも仕事をこなし、後年はロンドン王立協会の会員にも選ばれています。ちなみに次男のジェームス・プレイフェアは建築家として成功しており、「華麗なるプレイフェア一族」と表現しても言い過ぎではありません。

そんな環境のもとで育ったウィリアム・プレイフェアは、自分が「何者」であるかを証明するかのように、さまざまな職業に就きます。しかし、どれも大成したと言えないまま逃げるように次の職を求めています。

19歳になるとイングランド・バーミンガムへ行き、もともと機械いじりが好きだった影響もあってか、蒸気機関を改良したジェームズ・ワットの会社で製図師として働きはじめます。

しかし安い給料に嫌気がさして23歳で独立します。20歳の頃に結婚した妻と子供を養えないからだと言われていますが、どこまで本当かは怪しいです。

独立してからは、イギリス・ロンドンで銀細工の店を開きます。「The Commercial and Political Atlas」は、ちょうどその頃に出版されています。

しかし、事業は失敗に終わりました。追われるかのように海を渡って、1787年にはフランスのパリに移住します。諸説ありますが、フランス人の人身売買に携わっていて、その一部の金銭を横領したから逃げるしかなかった、という小説顔負けの話もあります。

 

当時のフランスは、王政とそれに対峙する貴族、そして特権階級を敵視する民衆らの対立の真っただ中にありました。2年後の1789年7月14日にはバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に革命の波が押し寄せていきます。

ちなみにプレイフェアがバスティーユ襲撃に参加していたという話もあるぐらいです。お前スコットランド人やんけ! と私ならツッコミを入れますが、何かイベントがあれば参加したくなる性分なのでしょうか。

やがて革命が恐怖(テロル)に堕ち、密告と内乱によるギロチンの嵐が吹き荒れる頃、自分も危ないと思ったのか今度はドイツ・フランクフルトに移住します。

彼は1793年には再びイギリス・ロンドンに戻りますが、その後も何とかして一発当ててやろうと奮起し、作家、商人、投資ブローカー、土地投機家、銀行家、編集者、翻訳者とさまざまな職業に挑戦しては、運命の女神に睨まれたかのように失敗を繰り返します。

ベンチャースピリッツは持っていても、ビジネスを成功に導く手腕は持っていなかったようです。

 

さらに、1805年46歳には詐欺罪で有罪判決。1816年57歳には恐喝未遂、1817年59歳には名誉毀損で再び有罪判決を受けています。起業家の一面を持ちながらも、犯罪を重ねるプレイフェアという人間がよくわかりませんね。

1823年、ウィリアム・プレイフェアはその生涯をロンドンで終えます。グラフの発明家としてではなく、日刊紙の元編集者として知られる程度でした。

 

やがて、手当たり次第に鉄砲を撃っていた頃の弾の1つに過ぎない1冊の本が、ヨーロッパ全土、特にフランスとドイツにジワジワと浸透していきました。

ウィリアム・プレイフェアにはグラフ作りの才能が確かにあって「The Commercial and Political Atlas」以降に出版した本に掲載されたグラフは多くの人間を魅了しました。

そして、1800年以降はデータ表現の黄金時代が幕を開けます。本書で紹介する残りのグラフすべてがウィリアム・プレイフェアに直接関係するか、あるいは間接的に関わっています。

しかし、その評判もイギリスにまで届いていなかったようです。

その理由として「あの人は素行が悪いから近付かないほうが良い、という評判が立っていた」説が有力だと言われています。つまり今も昔も「何を言ったかより誰が言ったか」が大切なのです。

グラフの発明家としてイギリス国内で再評価されたのは死後80年、1900年以降です。死後評価された芸術家としては、ゴッホや宮沢賢治と双璧だと私は思っています。

 

世紀の大発明だった棒グラフ

ウィリアム・プレイフェアの記した「The Commercial and Political Atlas」で表現されていた棒グラフは、現代の私たちが見ても十分に理解できるほど高い完成度を誇ります。

以下の棒グラフを見てください。これは本に掲載された棒グラフです。縦軸にデータ項目である国名を、横軸に輸出入ポンド(量)を表しています。国別に2本の棒があり、下の棒が輸出、その上の棒が輸入を表しています。

 

このグラフから、ロシア(Russia)やアイルランド(Ireland)といった特定の国と取引量が多く、輸出入超過も一瞬でわかります。
産業革命の中心地であるイギリスにおいては、貿易は国力を強化する極めて重要な手段であったため、国別の輸出入記録は、政治家にとっても貿易商にとっても大事なデータでした。

縦に表現しているか、横に表現しているかという違いはありますが、私たちが普段から目にしている棒グラフと変わりありません。

輸出入量というデータを棒の高さで表現し、かつデータ項目同士を「比較」させて、何が起きているかを明らかにしていました。

さらに、データ項目が下に向かうほど棒の高さが高くなっているのがわかります。何を比較するためにデータ項目をどの順番に並べるべきかまでウィリアム・プレイフェアは考えていたようです。

つまり、棒グラフは200年前に誕生した時点ですでに完成していたのです。

200年前に発表された棒グラフが、ほとんど修正される機会もなく現在を生きる私たちでも読み解けるというのは奇跡ではないでしょうか? それほど、棒グラフは「世界的な大発明」であり、誰もが簡単に直ぐに使えるグラフである証拠だと私は考えています

 

棒グラフは年表にインスパイアされたおかげ?

…おっと。公開はここまでです!

へぇ~と感じる点はありましたでしょうか。

「グラフをつくる前に読む本 一瞬で伝わる表現はどのように生まれたのか」では、棒グラフの他に、折れ線グラフ、円グラフ、レーダーチャート、ヒートマップ、散布図、積み上げ棒グラフ、面グラフの8種類を紹介しています。

6種類のグラフ表現方法において、どのような歴史を経て今のグラフが誕生したのか歴史を辿っています。

ぜひ手にとって見て頂ければ幸いです!

 

グラフをつくる前に読む本 一瞬で伝わる表現はどのように生まれたのか
松本 健太郎
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